全てを赦す病

如何に寛容になろうとも、実益から目を背けるのは阿呆だ。礼儀から目を背けるのは偽善者だ。

環境や努力は所詮才能で、自分の評価も悪評も全て生まれたときから運命づけられている。
だとすれば、努力だの才能だのにすがるよりも、同じ不遇に立つ全ての人間が実用主義的かつ快楽主義的に生きることができるように、バランス良く生きることが健全だ、と信じている。
より形而上学的に生きることを望むならば、死ななければならない。しかし僕は死にたくない。

デールカーネギーの言う「わたしがあなたならばそうしたでしょう」は、神の視点に立つ優越感を抱くことを目的としているのではない。
上記のことを踏まえながら、自分の利益を最大化しながら相手を不快にさせない技術なのである。
全てを赦す女神の抱擁より、三度までしかない仏の顔の方がよほど健全だ。

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